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あっちで見てきた世界についてお話しします

臨死体験をしたことのある人たちの話しというのは様々です。
しかし、そんな体験談の中にはいくつか共通点もある。

例えば、
「そこは一面に美しい花畑が広がっていて、光輝いている」とか、
「金色の龍や妖精が飛んでいる」とか、
「お釈迦様がいた」とかそういうものなどです。

中には、先祖や親しかった故人がそこに現れ「あなたはまだここに来るべきではない」と言われ、この現実の世界に舞い戻ってきたという話しなどもある。

はたまた、
「そこには人の姿もなければこの世にあるような風景などはなく、ただただ眩い光に包まれた、何とも形容しがたい愛と安らぎに満ちた世界だった」という人もいます。

でね、ぼくが臨死体験で見てきた世界というのはですね

そんなもんは

ないです(キッパリ)

ただただ、ひたすらに“無”の世界。
“すべてはひとつ”?
“在るの世界”?
“愛”でしかない?

いや、だから
なーんもないんだってば

人は見えない世界に対して、
ファンタジック、
ドラマティック、
ロマンチック、
ミステリアス、

あるいは
「神話性」だったりといった、ストーリーの存在する世界を期待します。
「そんなもんはないよ、永遠に真っ暗闇の無の世界だよ」とか言おうものなら、なんか白けた空気になってしまうんだよな(笑)

いや、ほんとにね、
「永遠」とか「真っ暗闇」とかいう概念すらあてはまらないほどに「無」の世界なんですよ。
ガッカリさせて悪いんだけど、それがぼくが見てきた世界です。

と、ここでひとつ疑問が湧いてきますよね?

「じゃあどうして、その『無』の世界でおまえの『意識』は存在してたんだ?」っていう話しじゃないですか。

だって、そこが「無」の世界なら、ぼくの意識すら存在しないはずなんです。
それはおそらく、うっすらと意識の糸のようなものが、この現世に繋がっていたのではないかと、ぼくは推察します。
そう思うだけの心当たりがあるのです。
ぼくの意識は、おそらくは第一チャクラを通じてこの現実世界と繋がっていたのではなかったのだろうかと。。。
第一チャクラは生命エネルギーが最も強く、まさに地に足のついたチャクラです。
色で表すなら赤。

この世界に引き上げる力が最も強いチャクラ。
車のギアでいうところの一速だね。
スピードは遅く重いけど、最も力が強い。
もしもこの意識の糸が第一チャクラと繋がっていなければ、ぼくは完全に無の世界に帰してしまい、この世界には戻ってこれてなかったかもしれない。
だから厳密には、「無の世界を垣間見た」という表現が正しいのかな。

では、ぼくが見てきた
「ただただ、ひたすらに“無”の世界」とは反対に、
「眩い光に包まれた安らぎに満ちた世界」や「すべてはひとつ」の世界をぼくは否定しているのかというと、そんなことは決してない。

おそらくは、無の世界と光の世界は表裏一体。
まさに対局図のような関係にあるといえる。


そしてこの、「眩い光の世界」を体験した人は、
おそらくは第七チャクラを通って体験したのではないかと考えています。
第七チャクラはスピリチュアル性が強い、宇宙と繋がるチャクラですよね。

車のギアでいえば、トップギアなので、最も高速で軽い。軽すぎて浮きかねないぐらい(笑)
色で表すなら紫。

つまり、第一チャクラから第七チャクラの領域に存在しているのが、我々の住んでいるいわゆる「この世」なんです。
色でいうと、赤から紫の領域の色彩で表現される「目に見える世界」ということです。それって虹の光だよね。

言い換えるならば、
この世界は「虹の光の中で具象化された世界」なのではないかとぼくは考えています。
虹色でつくられた世界は目に見えるじゃないですか。
たとえば逆に、赤の外にある赤外線も、紫の外にある紫外線も、ぼくたちの目には見えないよね。

だからね、目に見える世界と見えない世界って、まあそんな感じで存在してんじゃないかな。

ではここで、
無の世界を「黒」と呼ぶことにしましょうか。
んで、光の世界を「白」と呼ぶとします。実際には色で表せるものではないけど、便宜上そう呼ぶことにします。

赤から紫の虹の領域の世界がぼくらが見ているこの「現実世界」。
そして、黒と白で表される世界が「目に見えない世界」。
無理くり言語化させるとすれば、こんな感じかな。

だからね、
お釈迦様の姿や聖母マリアの姿、天使の姿、はたまた神さまの姿をした存在が、見えない世界にいるとかそういうのはさ……(笑)
いや、否定をしているわけではない。
「それはまた別のおはなし」というやつで、説明するとやたら長くなるので今はやめときます。
現にぼく自身、無の世界からこの世界に戻ってくるときには、「無の世界」とはまた違う不思議な世界を見ているからね(それについては本に書いています。あのくだりには一切脚色してないからね)

はしょりにはしょって、結論だけ言うならば「この世界はその人が見たい世界を自在につくることが出来ている」ということ。
わかりやすく言えば、この世界は「いると思えばいるし、いないと思えばいない。あると思えばある。ないと思えばない」で出来ています。

いずれにしろ、ぼくが見た無の世界には、“そんなもん”はいなかったわけです。当たり前だよね、無なんだもの。
ほんとはさ、「あっちの世界にはそういう神々しい存在がいて、ぼくはそこで啓示を受けてこの世界に戻ってきたんだ」とか言ったほうが、ビジネス的には何かと都合がいいんだけどね(笑)

ほら、そういうのが好きな人って多いじゃないですか。
人ってさ、特別な存在、特別な体験に憧れやすいもんなんですよ。
そこんとこの意識をくすぐったほうが商売はしやすい(笑)
それもまた事実です。

でもね、セミナーやトークイベントでよく言うことだけど、
「あまたもわたしも、みーんな特別な存在なんだよ」

この業界ではよく言われる慣用句だし、そして言うとけっこう喜ばれます(笑)
否定してません。事実だとぼくも思っています。

でもさ、よーく考えてみてん。
そんならよ、
「じゃあ『みんな普通』ってことででよくない?」

てことなわけよ。
普通に立ち返って気づくこと、けっこうあるんです。

もう一度言います。
すべての人が特別な存在です。たしかにその通りです。
だけど、強い劣等感や罪悪感を埋めるために自分や誰かを特別視するのは、気がすんだらさっさとやめたほうがいいとぼくは思ってる。

見えない世界に憧れたり、特別な存在でありたいという気持ちはわからんじゃないけど、現実をしっかり見つめて生きていくためには過剰なヒエラルキーは必要ない。

ってのが、ぼくが臨死体験をして気づいたことです。
なぜって、スピリチュアルなんてものは、“ほんとうの自分”から目を逸らさずに現実をしっかり見てなきゃわかんないから。

それにさ、見えない世界に憧れ抱くより、この現実世界を自分の思い通りにつくって生きる方法をとっとと見つけたほうが楽しくない?
そのためには、見えない世界は何も特別なことなどではなくて、普通に当たり前のことだと腹落ちしたときに、ようやく現実化するものだと、少なくともぼくは考えています。
スピリチュアルは現実創造に活かしてなんぼです(笑)。
ぼくは俗っぽい人間ですからそういうふうに考えてます。

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